「あなた」と「わたし」の混合ーープライバシー概念の限界
さて、これまで(飛んで)2回ほど、あなたはあなただけのものではない、あなたが選ぶものは他の人と混ざり、あなたが見るものも他の人と混ざる、という話をしました。
データ化されて行動履歴が使用される以上、そのデータはあなたになったり、「他の人」になったりするわけで、
あなたがネットに足跡をつける以上は、そうして現れる思考を、もはやあなただけの内に留めておくことはできないのです。
プライバシー概念とは、かつて「放っておかれる権利」と言われたことがあります。
しかし、この現状からすれば、あなたは決して「放っておかれる」ことはありません。
むしろ、データを集める企業に、進んで声をかけられ、振り向かされ、形式ばかりの同意と提供を求められるでしょう。
ところで、「放っておかれる」ことがなぜ大事なのでしょうか?
それは、「放っておかれること」「自分で放っておかれるときと、放っておかれないときを選択できること」
──つまり、情報提供の文脈で言えば「秘密を保つこと」、
ひいては「情報開示を選べること」が、自分の人格を大事にするにも等しいことだからです。
プライバシーは、不可侵の人格権として広範な範囲を指し示します。
したがって、「これがそうです」と具体的に言えるものではありません。
しかしながら近年では、
自己情報のコントロール権として具体化された形で言及されることが多いです。
「自分で自分の情報を開示するか選べる」権利ということですね。
でも、あなたのデータは、他の人を「見る」ためにも使われているわけで、
そういう時代に、「自分の情報をコントロール」するだけで充分と言えるんでしょうか?
なので、権利概念としてのプライバシー今や不十分です。
「あなた」のデータは他の人を「見る」ためにも使われるので、
もはやあなただけのものではないのです。
もう一つ付け加えるなら、
権利概念としてのプライバシーはそれはそれとして、
仕組みとしていかにそれを実装するかという問題があります。
さっき「形式ばかりの同意」と述べたのはその一つです。
みなさんはプライバシーポリシーや利用規約を読んだことがありますか?
「読んだ」とチェックをつけるとき、
本当に読んでいますか?
ですよね。
私も読んでないです。
というわけで、プライバシーは概念だけじゃなく、
その実装に関しても難問を抱えているといえます。