いつか見た船

迷える子羊とその日記

中国語で「入店するときはマスクつけろ」と書くのは差別か?

面白いネタをもらいました。やってみます。

本来なら序論とか書くんだけど別にいいよね? この問に差別かどうか回答を与えてみよう。アブスト終了。

 

 

都内某所のコンビニで、中国語で「入店するときはマスクをつけてください」という貼り紙があった。これは差別なのか?

 

道具

えー、前提としてまず私が使用するのは差別の規範理論です。差別の規範理論とは、人々の差異づけおよび差異づけに基づいた差異処遇*1を前提として、その上で何が差別なのか、差別がなぜ道徳的に悪いのか、を探究する学問分野です。

わかりやすくいうと、女性が女子トイレに行き、男性が男子トイレに行くことは性別に基づく差異処遇ではありますが、道徳的に悪質な差別ではありません*2。なお、緊密に関連する分野として正義論があります。「正しい」取扱いと「正しくない」取扱いはコインの裏表として把握されるためです。

規範理論の中には、差別の悪質さを心的・経済的害に求める「害ベース説」と人間として尊重されていないことに求める「尊厳ベース説」があります。

 

ここまで前提ね。どっちでも説明できそうだね。

 

説明

害ベース説を使用する場合

これは直観的にはわかりやすい説です。つまり、被差別者(ここでは中国人)が不快に感じれば差別だというもの。

ただし害ベース説は帰結主義や、利益による埋め合わせといった考え方を採用するので、どこを帰結とするかによって回答が異なる可能性があります。

つまり、時系列的には

 

感染拡大(→貼り紙→中国人の不快感)→流行する/しない→収束

 

という状況になっているわけですが、現時点(下線部が該当)として見ると明らかにこれは差別です。

しかしながら、利益による埋め合わせを考慮する場合、日本人への利得が中国人の不快感を上回る可能性があり、その場合には差別でないことになります*3

まあ、これを欠点と呼ぶかどうかは立場の違いもあるかもしれません。一瞬でも害と認定できることはマイノリティにとって重要なのだという議論も十分成り立つでしょう。

 

尊厳ベース説を使用する場合

めんどくさいのはむしろこっち。

 

尊厳ベース説の代表格、Hellman(2008=2018)はこのような事態に対する基準として以下の3つを挙げています。

①当該の措置が平等な人格的価値の侵害を表現しているか(表現条件)

②当該措置はこれまでの平等な人格的価値の侵害を表現する行為とどれほど類似しているか(慣習条件)

③当該措置をおこなう人々や組織はその状況においてどれほどの権力を握っているか(ヒエラルキー条件)

 

①当該措置は平等な人格的価値の侵害を表現しているか?

尊厳ベース説は人格を尊重していないことに差別の根拠を求めますから、では「人格を尊重していない状態とはなんぞや」という問が出てきます。現在は題材が医療なので、生存権をベースにするのが妥当でしょうか。つまり、特定の国籍であることを理由に例えば、検査・治療を受けられないことは不当である、といった具合です。

さらに、こちらでは当該の属性にまつわる解釈的判断を使用します。ここでは「中国人」ですね。貼り紙が中国語で書かれていること+現在の感染状況を考えると、これは明白に中国籍の人々と、中国籍以外の人という差異付けをしている。

 

現在も中国籍の人々は日本で歴史的な重圧を負っていますから、この区分を採用することはちょっとリスキーです。差別にあたる可能性はでてきます。

 

問題は「マスク着用を勧告することは『人格を尊重していない』のか?」ということです。

 

 

②当該措置はこれまでの平等な人格的価値の侵害を表現する行為とどれほど類似しているか

入店の際にマスクの着用を勧告する場合、「マスクしてない中国人は入店するな」という意味であることは容易に理解できるでしょう。

当該の場から排除するということは、この場合には消費する権利を剥奪するということです。まあ、これは問題含みではあるでしょう。

 

③当該措置をおこなう人々や組織はその状況においてどれほどの権力を握っているか(ヒエラルキー条件)

しかし、この消費する権利の剥奪はそこまで絶対的なものかというと疑問が残ります。

第一に、このコンビニがコンビニグループ全体ではなく一店舗に過ぎないことがあります。コンビニならおおよそ品揃えは同じですし、少しいけば同じ店があります。コンビニの一店舗がやる分には、まだ中国人の選択肢が確保されている状態だからです。

第二に、入店したところで実際に排除に動くかどうかが不透明であることが挙げられます。そもそも中国人であることをいかに判断するのでしょうか? 話さなければわからないのでは? さらに、言語と国籍は必ずしもイコールではありません。また、確認されたら実際に退店を促すのでしょうか?

 

結論

以上の判断から、最終的には私は差別ではあるかもしれないが軽微であるという判断をしています。害ベース説を採用する場合にはより重度になるかもしれません(現時点では)。

本当は害ベース説をより詳細に検討して、「マスク着用」と「人格的価値」の関係性をよりはっきりさせるべきなのですが。後者に関しては「害を為さないこと」が人格の一部として(義務論的に)要請されると考えれば、彼らはむしろ人間扱いされている?

 

しかし、どうもこの議論は決まらないですね。はっきり答えが決まる類のものではないので、「はっきり決まらないこと」自体が課題であり、乗り越えるべき対象であるのかもしれない。

*1:英語ではdifferentationという。この語自体に日本語で言う「差別」のような道徳的に悪質であるという意味合いはなく中立的

*2:話をわかりやすくするため、トランスジェンダーの人々はここでは考慮しないものとする

*3:このあたりの一般的な害ベース説の欠点を克服するためにKasper Lippert-RasmussenがParfitの優先主義を元にした害ベース説を提唱しています