「あなた」と「わたし」の混合ーー広告と欲望
前回、「あなたは誰ですか」という問いで終わっていましたね。実はあの話、少しだけ続きがあります。
マスメディア広告はずっとテレビやラジオが担ってきましたが、インターネットの登場はそこに風穴を開けました。今日ではSNSでの評判、はたまたAmazonでの評判、口コミサイトでの評判も一つの「評判」として成り立っています。
ただ私は、化粧品の例を挙げることで不完全ながら、ここに一つ仮説を加えたい。
化粧品。各種雑誌がそれを使ってしのぎを削る大型嗜好品。
化粧品も同様消費者に選ばれる立場にあり、消費者は目当ての商品の情報を収集し、自分で望んだ人の意見を参考にし、自分で決定を行います。
そこで見るのが口コミサイトだったりするわけです。知人でもいいです。「いい商品知らない?」と尋ねることはごく自然なコミュニケーションです。
でも今、ものを選ぶときの参考にするのはそういう従来の口コミだけじゃないですよね?
YouTubeでレビュー動画、探しませんか。Twitterで写真、探しませんか。運がよければプロのブログにたどり着けますよ。
この中で、YouTuberはかなり重要なアクターになってきていると感じます。
企業側もそれを心得ているらしく、商品を送付して使ってもらっていたりしますよね?(「お送りいただきました」って言ってる動画があります)
YouTubeはそのシステム上「チャンネル登録」機能が実装されており、Twitter同様の「フォロワー」を有します。美容系YouTuberをフォローして、その商品がいいと思うとき、少なくともそのフォロワーで「この人が使っているから」と思うことは多いのではないでしょうか。
ここでYouTuberの評価は一つの口コミになっているんです。(@コスメもフォロー機能だけはありますが、影響力は段違いです)
インターネットでものの名前を検索するときと、YouTubeやTwitterで特定のアカウントから化粧品情報を得るとき、そこでモノとヒトの比重はほぼ逆転しているのです。モノ中心からヒト中心へ移っている。
あなたの欲望は、その他大勢の欲望と一緒になっている。
それを欲しがっているのはあなたの中に入ってきた他人と不可分になった新しい「あなた」です。
それはレコメンドエンジンの仕組みにもいえます。
個々人はインターネット上で「棲み分け」を行ってきました。特定の掲示板は特定の話題を扱う。でも今は、その「棲み分け」はアルゴリズムによって行われます(※1)。
Twitterの「おすすめのユーザー」機能はなかなか優秀です。
その元になっているのは何かと言うと、Twitterだったら発言内容の自然言語処理だろうし、誕生日から割り出した年齢かもしれない。
年齢は、より大きな集合の中に再編成され(24歳なら20代、など)、他の人のデータと関連付けられて把握される。
……こうしてあなたは他の人と混ざる。
※1:その「棲み分け」は、フィルター・バブルとして知られています。特定のエリアしか見られない。
「あなた」と「わたし」の混合ーーアルゴリズムとアーキテクチャ
アーキテクチャ、ご存知のかたも多いかもしれません。といってもここで私がいうアーキテクチャとは、選択アーキテクチャのことです。
選択アーキテクチャとは、「選択者の自由意思にまったく(あるいはほとんど)影響を与えることなく、それでいて合理的な判断へと導くための制御あるいは提案の枠組み」のことです。(参照ページは勘弁してください。実物が大人気で手に入りませんでした)
この概念を作り出したのは『実践行動経済学』の著者、リチャード・セイラーとキャス・サンスティーン。ナッジ(※1)を開発してノーベル賞を取った人です。
企業が実利を追求する中で、どのようにものを提示するかを選ぶことはずっと至上の命題でした。しかもそれが実際に売上を左右するならなおさら!
だからマクドナルドの硬い椅子は、それだけで画期的なものなのです(椅子が硬いと居心地が悪いので長居しない=回転率が上がる)。たぶん。
さて、売上を上げる仕組みとして近年実装され続け、効果を上げ続けているものがあります。レコメンドエンジンです。
ここであれこれ言いたいのはレコメンドエンジンが自由意志にいかに影響を与えているかではなく(※2)、もっと明らかになっている側面…つまり、「あなた」と「わたし」の欲求の混合についてです。
「アルゴリズム」という言葉は、素人が使うとき非常に便利に、あらゆる意思決定を代行するかのように使われています(Mittelstadt, Allo, Tadeo, Wacher& Floridi 2016: 3)。誰の意思決定なのか?
購買アルゴリズム、レコメンドエンジンのときは企業の意思決定ですね。企業が消費者に何を見せるかを決定している。消費者が何を利用するか、何を買うか、ここは自由意志によって(※3)決められています。
ここで、レコメンドエンジンは一つのアーキテクチャと化しています。特定の選択肢に誘導する。この誘導は企業にとっても消費者にとっても合理的かつ有益である。企業にとっては利益を上げられるし、消費者も欲求を満たせる。ウィンウィンですね!
そこでその商品を買った(※4)としましょう。興味ドンピシャであなたはほくほくと商品到着を待ちます。
ところで、それ本当にあなたが選んだんですか? ええ、もちろん選んだのはあなただけじゃありません。アルゴリズムも選びました。じゃあアルゴリズムはなぜあなたのことを知っているのでしょう?
大きく分けて手段は2つ。①過去の振る舞いから予測する、②似た人と突き合わせる。
①は簡単。あなたが何を買ったかに準じます。「これを買った人はこの商品も買っています」がその例です。
②も論理的には簡単です。あなたと好みが似た人が買ったものならあなたも好むだろう。「好みが似ている」はどのように決めるのか?
1つ考えられるのは、買ったものが似ているケース。①と少し似ています。
もう1つは、あなたの属性から割り出すケースです。あなたは「男性」で「20代」で「会社員」です。他の「男性」、他の「20代」、他の「会社員」が買っているものはなんでしょう?
もちろん最初は正答率が低いかもしれません。でも1つでも商品を買ってもらえればそれはヒントになります。買わなくったって、どのような商品を見たか、何秒見たか、カートには入れたか……指標はたくさんあります。こうしてアルゴリズムはあなたを知る(Lippold 2017=2018も参照)。
要するに2つともものをレコメンドするには変わりないのですが、参照先が変わるのです。①は「モノ」、②は「ヒト」になります。あなたはこれらのデータの集合体になるのです。あなたは、使っているサイトごとに「あなた」になります。
Amazonには「Amazonのあなた」、Googleには「Googleのあなた」、Netflixには「Netflixのあなた」が住んでいるのです。
じゃ質問変えますね?
あなたは誰でしょうか?
引用文献
Lippold, John C., 2017, We Are Data: Algorithms and The Making of Our Digital Selves, New York: NYU Press.(=高取芳彦訳,2018,『WE ARE DATA――アルゴリズムが「私」を決める』日経BP社.)
Mittelstadt,Brent D., Patrick Allo, Mariaroaria Tadeo, Sandra Wacher, Luciano Floridi, 2016, "The Ethics of Algorithm: Mapping the Debate", Big Data& Society. https://doi.org/10.1177/2053951716679679
※1:ナッジとは、nudge=肘で軽くつつくことを意味し、適切で合理的な手段に人々を導くこと。人の無意識を利用することに特色がある。類似に「仕掛学」など(→松村真宏教授に聴く、人を動かす「仕掛学」 | 慶應MCC 夕学リフレクション)。
※2:レコメンドエンジンが選択者の自由意志に全く影響を与えないかどうかはさておいてほしいです(ご意見や本・論文情報お待ちしています)。私も知りたいです。
※3:本当に自由意志なのかって? ……さあ?
※4:本当はものでなくてもよいのです。フォローする人をレコメンドする、とかでも。
文字とオートメーション
文字とオートメーション、この二つは今ひとつ馴染まなく見えますね。何を文字がオートメイトしているのか? オートメイトしているとして、何か影響があるのか?
その前に文字禍について説明する必要があります。オートメイトの影響をこの作品が一部説明しています。
文字禍。中島敦作。私の一番好きな文です。
物語は、アッシリア宮廷付きの学者が、文字の謎を解くよう王に依頼されて始まります。博士は、「なぜ線の集合体である文字が意味を持てるのか」という問いを発見し、その答えを文字の精という存在に求めます。
博士は調査を続け、人々が文字を覚える前と後で変わったことはないか尋ねて回りました。すると、
「おかしな統計が出来上った。それによれば、文字を覚えてから急に蝨を捕るのが下手になった者、眼に埃が余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧くなくなったという者などが、圧倒的に多い」
そして、博士はこう考えました。
「埃及人は、ある物の影を、その物の魂の一部と見做しているようだが、文字は、その影のようなものではないのか」
要は、道具を使うことで人間の代替された部分が退化したという主張です。衣服で人の皮膚は弱くなり、馬で人の足が弱くなり、文字は人の頭を弱くした、と。
とりあえず今回扱うのはここまで。
一貫して文字を含む記録技術は知を開くことを可能にしてきました。知識がより多くの人に届くように。印刷以前の時代には限界はありましたが、それでも本があれば、わざわざ(例えば)「名人」のところまで出向く必要はなくなりました。活版印刷以後は言うまでもないし、電子書籍が普及しつつある昨今についても説明は必要ないですよね?(※1)
文字は情報の保存を可能にしました。それも同世代のその土地の人々がわかる形で。文字が記憶を代理する時、書き込み・読み出しのタイミングは自在になります。メディアとしての文字。もし脳のキャパシティが有限かつ不変ならば、他のことに頭を使える。そこにどのような意味を取るかはほぼ自動化されます。「りんご」この字を見れば、日本語話者はひとまず赤くて甘いアレを思い出しますよね。
ここでいう「赤くて甘いアレ」は現実のリンゴの影です。
ケインズの『一般理論』では、「いついかなるときにも自分は何をやっているのか、その言葉は何を意味しているのかを心得ている日常言語においては、留保、修正、調整の余地を『頭の片隅に』残しておくことができる」といわれています。記録も日常言語でなされるとき(つまり特別に・明白に規定された論理性が存在しないとき)、解釈の余地は読み手の頭の中にだけある。記録の中に少なくとも修正の余地は存在しない。誰もが「リンゴ」を知っているから、写し取られただけで、つまり紙や粘土板に書かれただけで、口語との違いは生じない……はず。
文字禍の中では、文字における真と偽が対置されています。文字が指し示す真なるものの存在を前提にし、私たちは、「影を見ている」=文字によって概念を見ています。概念は事物そのものではありません。口語においても名前は同様の働きをする。
なのでそこだけは文字独自の話ではないでしょう。おそらく文字と口語の別は、文字(の精)が「鼠のように子を産んで増える」ことに由来すると考えられます。文字の種類も増え、書きつければ文字の数が増え、広く読まれればそれだけ広く文字が認識され、それによって私たちの認識が拘束される。
そこで起きた問題が、平たく言えば認知能力の低下。ではなぜそこで問題が起こるのかーー「文字の霊」。理解不能なものを同様に理解不能なものに帰する。
これは技術による認識の拘束に通ずるものです。人は技術を作り、そして技術は人を変える。「文字は人の頭を弱くした」つまり、文字は人間の思考(の少なくとも一部)を代替した、というのが主張の要点の一つです。
※1: あえて「活版印刷以後」と言ったのは、当初ベンヤミンのアウラの消失と、この文字禍の中の現象に類似点を見出していたからである。しかしベンヤミンが論じたのは「芸術作品のアウラが」「複製技術により」減衰したものであって、文字禍での論点をカバーしない。文字禍では、真偽の問題が結果的によりクローズアップされている。それは文中にある、「実際にあったことが歴史なのか、書かれたことが歴史なのか」という議論にも見られる。あっウィトゲンシュタインのほうが近そう。いやソシュールか? 専門の人誰か教えて。
プチエッセイ:人間の本質?
今日では、人間と動物を分ける能力は言語やメタ認識であると一般に言われている。進化論の 立場からいえば、その端緒になったのは手の解放、そして大脳の発達である。
その中でも文化の存在は際立っている。
文化にもさまざまな次元があるが、文字として言語で示される教義、祭事に使う象徴芸術、現 実を超えた生のメタ認識など、これらが組み合わさったものとして宗教が挙げられる。
話をわかりやすくするために、人間の祖先を例に挙げてみよう。
類人猿は通常、友人の死を認識はしても死後の世界を「想像」しているわけではない(cf.手話を習得し、人間と会話したゴリラのココ)。
一方人間は葬儀を行って死を悼み、実在するかどうかもわからない死後が安らかであるよう祈る。 ここで強調したい要素はメタ認識である。宗教において、メタ認識は自分の人生の位置づけや 意味付け、そして実際にあるかどうかは不明であるものを信じるという形で表れている。
ゴリラのココの場合には、死を「認識する」こと自体は人間と同様であっても、それをどう意味づけるかは大きく異なる。
ココは、「いつ死ぬのか」と尋ねられたとき「年を取り病気で」と、
「死ぬとき何を感じるのか」と尋ねられたときには「眠る」と、
死ぬとどこに行くのかと尋ねられると、「苦痛のない穴にさようなら」と答えた。
この「死の後は無」とする死生観は、人間のもつ宗教 として成立している死生観とかなり異なるものである。
人間は必ずしも本気で死後の世界を信じているわけではないが、かといって完全に証明できないものだから(非科学的だから)といって捨て去ってもいない。人間は独特の、虚実ないまぜになった「現実」を認識している。
完全に証明できない=非科学的だからといって…と書いたけれど、そもそも科学だって実在していると言えるのだろうか。
例えば私たちは温度計の温度を実際に感じているわけではないが、今日の気温が何度ですよと言われると、それを元におおよその温度を認識できるようになる。
さてこれは現実なのか、虚構なのか? 最初の実感できない「気温」は、少なくとも虚構だったのだろうか?
計測する道具によって、いくつもの現実が生まれるのだ(cf.グッドマン『世界制作の方法』)。
犬や猫は鏡に映った自分を自分だとは思わないが、人間はそれを「虚としての自分」であると 認識する。だからこそ鏡は「異世界への入り口」などと言われる。他の生物に「異世界」を感じるような能力があるだろうか。
さらに人間は、さまざまなことに対して「疑う」という能力を持つ。これは一つのメタ認識の現れである。メディアからの情報を疑う能力が「メディア・リテラシー」と表現されるよ うに、疑う能力に関しては教育が必要である。疑うことは、今のモデルを超越したところを認識 するわけであるから、まさにメタ認識である。
疑念や逸脱は、ある意味で社会の発展に不可欠である。これが文化的変化を生み出す能力の一 つとなっているのではないだろうか。
Detroit: Become Human/ロボットの(見かけ上の)性別と社会規範
Detroit: Become Human、買いました。やりました。スゴイ。けどなんかちょっと物足らない。
ラストはあそこで止まっていますけど、そこからが本当のOur Storyになるんですよ!!? 失礼。DLC商法かもしれないし、それはともかく。
主人公は何人かいますね。コナー、カーラ、マーカス。この三人の群像劇です。
コナーは警察にプロトタイプとして送られた最新鋭の試用機。カーラは裕福でない家に買われた家政婦型。マーカスは、噂によるとコナーよりスペック高いらしいですが、日本語だと情報出てこない。
一昔前、人工知能学会の表紙が炎上したことを覚えておいででしょうか?
なぜロボットが掃除をしているイラストのロボットは女性型で、背中にプラグがささっており、やや悲しそうな表情をしているのかーつまり表象の問題ですね。
デトロイト:ビカムヒューマンはこの問題を部分的になぞっている。
コナーは警察で運用されるエージェント機ということを想定して、男性型になっていますし、顔もスーツが似合うように設計されています(後半のカジュアルな装いと見比べてみてください。見栄えが全然違います)。
カーラは女性型ですね。店の中に並んでいるのは男性型もいましたが、物語に出てくる子供の世話をする機械として登場したカーラは、やはり女性型です。
ここでハンクの劇中の発言を参照しましょう。
「なんでそんな間抜けな顔に設計されてるんだ」でしたっけ(うろ覚え)。ここでのコナーの解答がとても印象的です(こっちもうろ覚えだけど要旨はあってるはず)。
「私は周囲に溶け込めるように設計されています」
「周囲に溶け込む」=浮かない、ということです。つまりあの世界でも警察官には女性はいない、とまでは言わなくても最新鋭の警察業務を遂行するアンドロイドには男性という性がふさわしいとされている。カーラも同様ですね。
(まあ、カーラのことを考える場合には女性型としてのカーラを選んだお父さんをピックアップすべきかもしれません。アリスのことを考えて、男性型を無意識に避けたかもしれない。それはそれで性別の問題を浮上させることにはなりますが)
(もし介護・育児アンドロイドが女性型しかいないならこの問は問えますが、子供型アンドロイドを買うというところから、父親の代わりをさせられるアンドロイドもいそうです)
つまり、あの世界は現代の属性に基づく権力関係を超克していないんです。その権力関係は保存されたままロボットを導入した。そのためにああいう結末にならざるを得なかった、というところでしょう。
私が物足りなさを感じた理由はそこにあって、今のシステムにロボットを導入するという発想でいる限りそういうラストにしかなりえないからです。
人間同士でさえ協同できないのに、ロボットとなんか協同できるかよという感じです。
これは女性とLGBTみたいな話にも通じますね。それはまた追々話すかもしれません。
日本が変わらないのはなぜか
「派遣を選ぶなんて、近頃の若者は責任から逃げている!」
とても衝撃的な言葉ですが実録です。おじいさん世代ですね。
私たちがどれほど苦労してると思ってるのか! エントリーシート書いたことある!? ウェブテスト受けた!?(父親にこの質問をぶつけたところ、当然ながら「なかった」と言っていました)保険料いくら上がったと思ってるんでしょうね全く。
最近の若者は希望もなく働かされてそりゃ体壊すわみたいなご高齢の方のツイートを見ましたが、それが話題になるのは珍しいから話題になるわけでですね。
違和感はあるんですよ。めちゃくちゃ勉強していると親世代には「よく勉強してるね」とか言われます。そうしないと就職できないんですよ。いやマジマジ。
さて、この人達の共通点。若い世代のあれこれを知らないことです。知ろうとしない人も多いですね。さあなんでか考えてみよう。
日本は単一民族国家と信じられており(流石に今はそんなことないんだろうか)、その地理的閉鎖性から遺伝子多様性にも乏しいと思われます。一例として、服飾分野に人間の骨格を三種に分ける骨格診断理論というものがありますが、そのうちの一種が八割を占めると言われています。「同じ服が似合う人が多い」ということは「それが似合わない人は弾かれる」ということでもあります。たぶんその辺の事情も関係しています。
同調圧力、ですね。これは同じ集団間だけで適用されるものですが、これを任意の集団レベル、ここでは国民レベルに拡張すれば当然、「俺はできたのになぜお前は」ということになります。
上の人の言うことは絶対。「上の人」って誰ですか? 上司? 政治家? 親? 先輩?
少なくともその認識の中に権力関係が存在してるってことですよね?
アジアでは階級の縛りはかなりあります。ここでいう階級は直接的にとり結ぶ上下関係のことです。身分のことではありません。上の人が絶対、これは概ねアジアの傾向。
むしろ日本で特筆すべき点は次のものです。
アジアとしての考え方の悪癖は世界大戦時に出まくっていました。先輩は絶対で、先輩にされたように後輩をしごいて「鍛え」なければならない、戦争より先輩が怖い。『海軍めしたき物語』では、厨房で包丁を取り合う様子が記録されています。先輩から包丁をもぎ取らないと仕事ができない。できても文句を言われる。
陸軍と海軍の対立。ネジの規格が違うため、部品を流用できない。
結果はご存知の通りだったわけですが、日本が特殊だったのは、支配層が入れ替わらなかった点です。アメリカが日本を政治的に活用するため、支配層を残さざるを得なかったのだと私は解釈しています。元軍人が会社を経営したり、重鎮となって今も活躍? しています。
かくして変わることはできなかった。悪習は保存された。年配の人を厄介な人たちと見て遠巻きにする…つまり誰かが何をするわけでもなくその人の死を待つ。そしていざ自分が支配層になったら自分はそんな老人になっているかもしれない。だってそんな人しかいなかったから! 周りもみんなそうだから! 自分は正しい!
価値観をアップデートできない、これは致命的な問題です。それを妨げる土壌があることはみんなわかっていますが、大戦時にそれが取り払われなかったというのも理由の一つではないか、という文でした。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンと機械=人間観ノート
まだノートだけどせっかく書いたし…という言い訳
興味深い点
「自動手記人形サービス」
代筆=機械としての位置付け
しかし女性しかいない
→知性と性の融合した商品サービス
ヴァイオレットもメイドと同じようなことをした
人であるから対応できること、そこまでサービス内容に入っていると見て良い
しかしどこまで女性である必要がある?
つまり、なぜ女性しかいない?
って考えると答えが一つでは?
このサービスが成立するためには物流復旧と識字率の低さが必要
前者はクリアしているとして
農村の人間でも字を読む描写があるのに書けないのか?
ここの順番はよくわからん、現代だと同時に訓練されるし
ヴァイオレットが心を備えて「成長」していく様子、機械としてのそれではなく人間としての気遣いが求められているのは明白
それがこの仕事のキモ
代筆はオマケ…はいいすぎか、代筆は機械でもできるが、機械ではできないことを求めている
人間としての気遣いとは?
ヴァイオレットは作中、人に触れることで愛、というか、痛みを理解する(自分がしてきたこと、「燃えている」状態の理解)
戦闘機械としてのヴァイオレットはまだ本能と身体能力だけで動いていて、心を備えていない状態をそう呼ぶならばまさしく「機械」もしくは「動物」…えーこの区別は置いておこう話がややこしくなる
人間と機械を大きく分けているものはもちろん生殖なんだが
そうするとこの自動手記人形サービスって結構面白い観点
つまり、性的な観点を導入せざるを得なくなるということ
「人形」という言い方も含めて
資格もあるくらいだから、それなりに普及した仕事だし
平民も依頼できるならそんなに高いものじゃない
このサービスをどう捉えるべきか?