京都はなぜ、どのように京都らしくないのか
まず京都のイメージといったら歴史、寺院、観光都市、ですよね。
や、でもね、結構程遠いところもあるんですよ、ということをこの記事では言いたいです。
まず京都駅着くでしょ? がっかりしません? あの見た目。和の色彩は全くない。某所では「京都らしくないところが一番京都らしい」とか言われていますが言い得て妙だと思いますよ。
あの建造は1997年。平成7年というと、市街地景観整備条例と同年の完成です。あれはコンペで選ばれたものらしいですから、選考期間を考えると実質もっと前の設計です。
さあここで景観条例の動きを見てみましょう。
景観整備条例としてもっとも早いものは1930年(昭和5年)。風致地区の制定です。東京を除く、京都以降の条例実施は完全に都市計画的な視点からなされました(加藤・中川・並木編 2006)。余談ですが、なんとその頃にはすでに京都市内には市電が走っています。路面のやつ。うーん文化の薫り。
しかしその時代には歴史どうこうではなく、郊外や山地の「自然」を守る形であったようで、当時の風致地区は、「京都市街から『望見可能』な範囲の山地部を中心に、岡崎公園や植物園等の京都府や市の所有地も含まれた」そうで、追加で認められたのも「京都府の顔を立てる形」での「平安神宮や建仁寺、下鴨神社」などでした(岩田 2010)。
つまり京町家なんかの市民の伝統を守る意識というのはありませんでした。また同年、全国初の観光課が設置されています。この両者は関連しており、この風致地区制定は観光産業に役立てるためでもありました。一応は。しかしこの後戦争があったことを忘れてはいけません。
その都合なのか、次の条例は1966年(昭和41年)まで飛んでしまいます。古都保存法による歴史的風土特別保存地区の指定。立法趣旨によれば、
「この法律は、わが国固有の文化的資産として国民がひとしくその恵沢を享受し、後代の国民に継承されるべき古都における歴史的風土を保存するために国等において講ずべき特別の措置を定め、もつて国土愛の高揚に資するとともに、ひろく文化の向上発展に寄与」
するためのものです(京都通百科事典 2016)。リンクはこれ→歴史的風土保存区域 京都通百科事典。
第二次世界大戦で敗北した日本は、どうにか国際イメージを向上させる必要がありました。ここで使われたのが舞妓の意匠でもあります(Brumann and Cox ed. 2010)
。
ここで制定されたのは美観地区、巨大工作物規制区域、特別保全修景地区(祇園新橋地区、産寧坂地区)です。
嵯峨嵐山地区は確かにこの時期に保護地区に指定されたのですが、市街地の拡大が急激に進んだため、樹林地の展望が大きく変容したとかなんとか。
そうそう、交通インフラにも触れておかなくてはなりません。高度経済成長及び1964年の東京オリンピック開催によって、インフラ整備が盛んに行われました。その一環として新大阪・東京間を結ぶ東海道新幹線が同年に開通します。
東山魁夷が京都の町並みの絵、「年暮る」を描いたのは1968年(昭和43年)ですが、その時すでにこの絵を想像で描いたと述べています。
まあ当時は高度経済成長期でしたからね。公害の問題なんかもいっぱい起こりましたし、利用者も最盛期には2億人を超えています。
路面の市電廃止の決定はその翌年にあたる1969年です。市電全線廃止は1978年ですね。
その三年後の1972年(昭和47年)、全国に先駆けて市街地景観条例が制定されます。
買い入れ・整備システムは存在するのですが、その内訳は植え込みなんかで、私達が想像する町並みを守る(とか、寺院をどうこうする)とは違うんです。あくまで自然に力点があったってことですね。
そりゃ市街化も進みますわ。
じゃあ肝心の町家を保護しだしたのはいつかというと、京都市が京町家再生プランの取り組みを始めたのが2000年。それを町並みとして保存しよう、「『点』から『面』へ(京都市 2007)」、という高さ制限や町家保護といった取り組みが総合的に行われ始めた(歴史的景観再生事業とよぶ)のはなんと2007年です。意外でしょ?
皆さんよくご存知の祇園なんかも、もともと建仁寺っていうお寺の借地だからいじれないっていう事情があったりします。 そもそも築100年位ですあのへんの町家は。祇園は京都市よりはさすがにちょっと早くて、町並み保存の開始が1996年。今の石畳になったのが1999年。確か石畳面積の半分は京都市の負担だったような。
以上のように、景観保存は私達の思っている、例えば京町家のようなものを保護する働きはないんですよ。京町家が町並みとして残っているのはごく一部で、一軒一軒は保護されることもありますが、その有志の団体も今や資金難だとかなんとかで。有志の団体というと、京都市文化観光資源保護財団とかですね。
京都は古都とはいいますが、そのような(一連の)景観が残っているのは実のところごく一部です。特に住宅は。で、そういうところはもちろん住宅街ですね。だからこそ市街地となっている中心に近い清水・祇園地区が人気になるわけで。
「古くて新しい」というのは確かに京都の性質だと思います。だから「京都らしくないことが一番京都らしい」なんて言われるわけです。パン好きすぎるよねあの人たち。
私たちはそう理解できますが、であれば、外国人観光客はどうでしょう。……どうでしょうね?
参考あれこれ:
加藤哲弘・中川理・並木誠士編,2006,『東山/京都風景論』,昭和堂.
岩田京子,2010,「風景整備政策の成立過程ー1920-30年代における京都の風致政策の歴史的位置ー」,Core Ethics(6),519-28.
Brumann,Christoph and Cox,Rupert eds., 2010,Making Japanese Heritage, New York:Routledge, 31-43.
京都市,2007,「京都市の景観政策」,http://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000062/62129/HP-japanese.pdf(最終取得日2017年10月18日)
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