いつか見た船

迷える子羊とその日記

文字とオートメーション

 


文字とオートメーション、この二つは今ひとつ馴染まなく見えますね。何を文字がオートメイトしているのか? オートメイトしているとして、何か影響があるのか?

 

その前に文字禍について説明する必要があります。オートメイトの影響をこの作品が一部説明しています。

 


文字禍。中島敦作。私の一番好きな文です。

 

物語は、アッシリア宮廷付きの学者が、文字の謎を解くよう王に依頼されて始まります。博士は、「なぜ線の集合体である文字が意味を持てるのか」という問いを発見し、その答えを文字の精という存在に求めます。

 

博士は調査を続け、人々が文字を覚える前と後で変わったことはないか尋ねて回りました。すると、

 

「おかしな統計が出来上った。それによれば、文字を覚えてから急に蝨を捕るのが下手になった者、眼に埃が余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧くなくなったという者などが、圧倒的に多い」

 

そして、博士はこう考えました。

 

埃及人は、ある物の影を、その物の魂の一部と見做しているようだが、文字は、その影のようなものではないのか」

 

要は、道具を使うことで人間の代替された部分が退化したという主張です。衣服で人の皮膚は弱くなり、馬で人の足が弱くなり、文字は人の頭を弱くした、と。

 

 

とりあえず今回扱うのはここまで。

 

 


一貫して文字を含む記録技術は知を開くことを可能にしてきました。知識がより多くの人に届くように。印刷以前の時代には限界はありましたが、それでも本があれば、わざわざ(例えば)「名人」のところまで出向く必要はなくなりました。活版印刷以後は言うまでもないし、電子書籍が普及しつつある昨今についても説明は必要ないですよね?(※1)

 

文字は情報の保存を可能にしました。それも同世代のその土地の人々がわかる形で。文字が記憶を代理する時、書き込み・読み出しのタイミングは自在になります。メディアとしての文字。もし脳のキャパシティが有限かつ不変ならば、他のことに頭を使える。そこにどのような意味を取るかはほぼ自動化されます。「りんご」この字を見れば、日本語話者はひとまず赤くて甘いアレを思い出しますよね。

ここでいう「赤くて甘いアレ」は現実のリンゴの影です。

 

ケインズの『一般理論』では、「いついかなるときにも自分は何をやっているのか、その言葉は何を意味しているのかを心得ている日常言語においては、留保、修正、調整の余地を『頭の片隅に』残しておくことができる」といわれています。記録も日常言語でなされるとき(つまり特別に・明白に規定された論理性が存在しないとき)、解釈の余地は読み手の頭の中にだけある。記録の中に少なくとも修正の余地は存在しない。誰もが「リンゴ」を知っているから、写し取られただけで、つまり紙や粘土板に書かれただけで、口語との違いは生じない……はず。

 

文字禍の中では、文字における真と偽が対置されています。文字が指し示す真なるものの存在を前提にし、私たちは、「影を見ている」=文字によって概念を見ています。概念は事物そのものではありません。口語においても名前は同様の働きをする。


なのでそこだけは文字独自の話ではないでしょう。おそらく文字と口語の別は、文字(の精)が「鼠のように子を産んで増える」ことに由来すると考えられます。文字の種類も増え、書きつければ文字の数が増え、広く読まれればそれだけ広く文字が認識され、それによって私たちの認識が拘束される。

 

そこで起きた問題が、平たく言えば認知能力の低下。ではなぜそこで問題が起こるのかーー「文字の霊」。理解不能なものを同様に理解不能なものに帰する。


これは技術による認識の拘束に通ずるものです。人は技術を作り、そして技術は人を変える。「文字は人の頭を弱くした」つまり、文字は人間の思考(の少なくとも一部)を代替した、というのが主張の要点の一つです。

 

 

 

※1: あえて「活版印刷以後」と言ったのは、当初ベンヤミンアウラの消失と、この文字禍の中の現象に類似点を見出していたからである。しかしベンヤミンが論じたのは「芸術作品のアウラが」「複製技術により」減衰したものであって、文字禍での論点をカバーしない。文字禍では、真偽の問題が結果的によりクローズアップされている。それは文中にある、「実際にあったことが歴史なのか、書かれたことが歴史なのか」という議論にも見られる。あっウィトゲンシュタインのほうが近そう。いやソシュールか? 専門の人誰か教えて。