いつか見た船

迷える子羊とその日記

プチエッセイ:人間の本質?

今日では、人間と動物を分ける能力は言語やメタ認識であると一般に言われている。進化論の 立場からいえば、その端緒になったのは手の解放、そして大脳の発達である。

その中でも文化の存在は際立っている。

文化にもさまざまな次元があるが、文字として言語で示される教義、祭事に使う象徴芸術、現 実を超えた生のメタ認識など、これらが組み合わさったものとして宗教が挙げられる。

話をわかりやすくするために、人間の祖先を例に挙げてみよう。

類人猿は通常、友人の死を認識はしても死後の世界を「想像」しているわけではない(cf.手話を習得し、人間と会話したゴリラのココ)。

一方人間は葬儀を行って死を悼み、実在するかどうかもわからない死後が安らかであるよう祈る。 ここで強調したい要素はメタ認識である。宗教において、メタ認識は自分の人生の位置づけや 意味付け、そして実際にあるかどうかは不明であるものを信じるという形で表れている。

ゴリラのココの場合には、死を「認識する」こと自体は人間と同様であっても、それをどう意味づけるかは大きく異なる。

ココは、「いつ死ぬのか」と尋ねられたとき「年を取り病気で」と、

「死ぬとき何を感じるのか」と尋ねられたときには「眠る」と、

死ぬとどこに行くのかと尋ねられると、「苦痛のない穴にさようなら」と答えた。

この「死の後は無」とする死生観は、人間のもつ宗教 として成立している死生観とかなり異なるものである。

人間は必ずしも本気で死後の世界を信じているわけではないが、かといって完全に証明できないものだから(非科学的だから)といって捨て去ってもいない。人間は独特の、虚実ないまぜになった「現実」を認識している。

完全に証明できない=非科学的だからといって…と書いたけれど、そもそも科学だって実在していると言えるのだろうか。

例えば私たちは温度計の温度を実際に感じているわけではないが、今日の気温が何度ですよと言われると、それを元におおよその温度を認識できるようになる。

 

さてこれは現実なのか、虚構なのか? 最初の実感できない「気温」は、少なくとも虚構だったのだろうか?

計測する道具によって、いくつもの現実が生まれるのだ(cf.グッドマン『世界制作の方法』)。

 

犬や猫は鏡に映った自分を自分だとは思わないが、人間はそれを「虚としての自分」であると 認識する。だからこそ鏡は「異世界への入り口」などと言われる。他の生物に「異世界」を感じるような能力があるだろうか。

さらに人間は、さまざまなことに対して「疑う」という能力を持つ。これは一つのメタ認識の現れである。メディアからの情報を疑う能力が「メディア・リテラシー」と表現されるよ うに、疑う能力に関しては教育が必要である。疑うことは、今のモデルを超越したところを認識 するわけであるから、まさにメタ認識である。

疑念や逸脱は、ある意味で社会の発展に不可欠である。これが文化的変化を生み出す能力の一 つとなっているのではないだろうか。