いつか見た船

迷える子羊とその日記

ド素人がZoteroの英文引用スタイル(社会学評論スタイルガイド)を夏休みの自由研究に作った話

0.はじめに

社会学評論スタイルガイドは有志の方が非公式版を作ってくださっていますが、私は英文の文献が多く、毎度毎度せこせこと手打ちで修正するのにブチギレました。もう締め切り前夜枯渇したリソースを引用のために使用したくない人のためのアレ。終わったら寝たいんだ! これを自動化できなくて何のためのプログラムなのか! 労働などロボットに任せればよいのだ! 失礼しました。

 

 

 

画像がでかいけど気にしないでください。

 

 

1.編集できるようにするまで

1-1.スタイルエディターが見つからない

公式が言う「設定」タブなんか(Macだからか?)存在しませんが、「環境設定」を見つけてください。一番下に「引用スタイルエディタ」があるのでそれをクリック。

1-2.どれをもとにしたらいいですか

詳しい人は適当なスタイルを一から編集しても行けそうだけど、自分はCapitalism Nature Socialismが一番近そうなのでそれにした。大本は社会学評論スタイルガイドなので、それらを組み合わせればそれなりのものができるだろうと。

自分の引用スタイルと類似したスタイルのCSLファイルを入手したらダブルクリックでインストールしてね。または(素人ゆえ本当にor条件かは不明)、Zoteroタブの環境設定から引用タブを開いて、引用形式がずらっと並んでる下の+をクリックしてインストール。

1-3.エディターのプルダウンにスタイルが表示されないけど!?

Capitalism Nature Socialismだけど、エディタで開けなかった。別のもうちょっと新しいやつにしたら開けた。更新日が2014年だったから非対応だったのかも。

 

2.正念場

これを片手に目を皿にしましょう。私はauthor-dateスタイルになりますが、脚注で引用するスタイルをどう指定するかもここに書いてあるっぽい。

2-1.英語と日本語で引用形式をわけるよ

結論からいうと分けられないみたいです(→2-2へ)。

英文のものと、日本語ので引用形式が違うので、まずtitleを英語と日本語と分けて定義する必要がある(いきなり難しいのがきた)。基準はtitleが英語(アルファベット)で記載されているか、日本語で記載されているか。

しかし、

CSL Editor では、日本語文献のスタイルも作成することができます。しかし、同じ論文の参考文献リストの中に英語文献と日本語文献が混在し ている場合に、別々のスタイルを適用することはできません。たとえば、複数の著者名を省略する際に、英語文献では 「et al.」、日本語文献で は 「など」 を使い分けることはできません。」(MendeleyのCSL利用ガイド*1) 

いきなり暗礁に乗り上げた。Mendeleyだと言語別ができるみたい(ibid.: 53)。

というわけでZotero版のこちらでは、複数の引用スタイルを使い分けることにして、……つまり社会学評論スタイルガイド準拠の英語文献版を新しくつくることになるね。 

え、これ訳書とかどうなるの?(というかZoteroで原著・訳書情報を同時に一つのファイルに登録できたっけ?)

 

 

2-2. どの部分がどの情報を指定しているのか確認する

 

詳しい人は読み飛ばして。この中では、< >ではじまり</ >でおわります。info(作成者などの情報)は<info>から</info>までです。この下位情報には名前(<name></name>で指定)とかメールアドレスとかが含まれてて、それらが入れ子構造になっているわけね。なので、まずどこからどこまでで、何の引用の情報が指定されているかを確認してください。で、ずらずらと書いてあるやつを分類します(ド素人なので)。まずは<macro>から</macro>まで。ちなみに私が開いてたやつでは<macro name>から</macro>で閉じてあったりもしました。

テキストエディタの仕様上、一度に二つのスタイルを開いておくことは不可能なので、ちょこまかと保存しながらやるよ。

まずは感覚をつかむために名前とか編集してみる。有効でない形式になると下の欄でエラー吐くから参考にしてください。もともと有効な形式を元に編集するメリットはまさにここにあります。

どこからどこまでが何の引用情報か確認したら、自分の引用スタイルと照らし合わせて、エディタ上で編集が必要なものを確認します。

 

2-2-1.マクロがどの欄について指定しているのかさっぱりわからないが?

さもありなむ。では自分の引用スタイルをまずは開いてみて引用してみましょう。それで何が足らないか見てみてくださいな。

私がよく使うのは、雑誌記事、ウェブ記事、編著、書籍、みたいな感じなので、それらに対する指定を見ます。DOIに対する指定とかはいじらなくてよし。

 

まずは雑誌記事。ライブラリ内から適当に取ってきました。

Kennedy, H., T. Poell and J. Van Dijck (2015), ‘Data and Agency’, Big Data & Society, 2 (2), 1–7.

これを、

Kennedy, Halen, Thomas Poell and Jose Van Dijck, 2015, "Data and Agency," Big Data & Society, 2(2): 1-7.

にしたいわけです。

 

情報の順番は同一ですが、著者名の形式(フルネームかどうか)、年号の区切りかた、そしてカッコの種類、終わりカッコの中にカンマが入るかどうか、ページ前はカンマじゃなくてコロンであること、巻が太字かどうかが違うわけです……けっこうちがうな……。 

 

2-3.具体的にいじるよ!

別窓で文献指定してるとテキストエディタの下の欄で結果まで表示してくれる。たいへんすばらしい。

f:id:circuitun:20200919133707p:plain

et-allの仕様を文面と突き合わせて確認してた。上の欄にet-allの仕様の指定と、下に(Zoteroのいつもの画面で文献を指定していると)適用後の結果が表れる。


というのは、社会学評論スタイルガイドって、確かet-allは4人からなんですよ。3人だと(A, B and C)になるはずなんです。なので、et-al-minを4に指定。

f:id:circuitun:20200919133957p:plain

とりあえず一つできたー!

 

 

2-4. 著者情報をいじる

まずはどこが著者情報なのか確認する。

f:id:circuitun:20200919134706p:plain

著者についての情報をピックアップした。具体的には、<macro name="author">に類するものを選んでいる。

あとは一個一個情報を抜いたり足したりしながら整合性をなんとかするだけ。だけとか言ったけどそれが一番難しい。名前を省略する命令は 「initialize-with=". "」らしい。「name-as-sort-order="first"」は最初だけ名前と苗字を倒置する命令(firstをallにすれば全てひっくり返る)。ここまで余裕で1時間かかった。あ、それから、 <text macro="year" prefix=", " suffix=", "/>これは年次情報の前と後ろを括弧内の任意の文字(?)でリプレイスするよ、という命令です。quotes="true"が「' '」での引用ですから、ダブルクォーテーションにする…ときにはどうすればいいかをネットで調べます。

でもわからなかった(30分経過)。

追記:できた。&#8216;がシングルクオテーションマークなので、近くの番号にダブルクォーテーションがあるだろうと思ったらあった。&#8220;がダブルクォーテーションの始まり、&#8221;がダブルクォーテーションの終わりです。

 

3.むすび

今日は疲れたのでとりあえずここまで。たぶん続ける。けっこうおもしろい。

(2021年1月10日追記:続きませんでした)

 

 

 

学際研究って何がつらいの?──東大で修士をとる

辛いよ!!!!!!!!*1

 

一番最初に本音が出てしまいました。研究はたのしいよ。

 

学際に限らず研究やりたい人には役に立つと思いますが、

この記事書くのは特に高尚な目的はなくぶっちゃけ憂さ晴らしです。

 

何が難しいのか、その難しさを踏まえて「よく」研究する*2ためにやっといた方がいいことを、

ここでは「義務」と「権利」という対の形でさっくり説明したいと思います。

(なおここでいう義務とは権利に先立つものではありませんよ。あくまで対概念。やるべきことと、できること。なお「権利」にはやるべきことのためにできることを含む)

 

なお受験および研究手法について言及はしません。ここでいうのは主にいかに見てもらう人を作るかについてです*3

 

何が難しいの?

とにかく(コメントできる)人がいない。これに始まりこれに終わる。なので博士課程のDC取得率が100%とかになる。自分で進められる人たちだけになる*4

理系のラボなら10人とかいるんだろうけど全員から反応が返ってくるなんて考えられない(※私はイメージで話をしている。エビデンスはない)。学際研究の場合、発表がよく出来てるともはや突っ込むところすらないです。だってわかんないんだもん。

逆に言うとそこだけが見られます。論理構造がしっかりしてるかってことね。

 

自分語り入りますが自分の研究に専門レベルでコメントできる人ができたの、私の場合M3の春です(アプローチが決まらなかった自分のせいでもある)。同じ専門の人に出会うにはさらに数ヶ月を要した。私どうやって卒業する気だったんだろう。

 

あと、引用形式が当該のジャーナルに網羅されていない場合がある。私の研究はArXivアメリカの判例世論調査、英文の発表予稿、YoutubeTwitter、新聞記事、これら全てを引用しているので事務的に大変だった。中にはあまり引用物としてあんまりオフィシャルじゃないものもあるけど。

 

なんで人間が重要なの?

教員と馬が合わない場合を想像してみてください。教員がゼミを何ヶ月もすっぽかしたりとか。教員が中間発表に来ないとか。教員がパワでハラだったりとか。まあ無限に理由はあります。

 

一言で言えば教員は場合によって頼りにならないんです。

 

学際研究においてこれが起こってしかも訊ける人がいないとなると詰みます。まあ話を聞けても「それ藁人形論法だよ(提出2週間前)」って言われたりしますけど、気付かないよりマシです。

この点学際における教員は専門が同じ指導教員とは使い方が違います。少なくとも変えるべきです。同様に扱うのは戦略的ではありません。 

だから教員のタイプは重要になってきます。ここに来て、あなたと教員は需要と供給を満たせるかどうか、つまり相性の問題になるわけです。それも通常の研究室以上に高い比重で。

あなたは教員に何をして欲しいですか? やる気にさせて欲しい? 関連した情報が欲しい? それともみっちり教育して欲しい? 読み書きする方法を教えて欲しい?

 

これを入学前から把握できたらベストだと思いますがそれも現実的ではない。じゃあどうするか。

 

行動して失敗して試すんです。

 

私はひたすら「材料を見つけるのは上手いし勉強量もものすごいが、書くのが下手」だと言われてきました。自分はずっと話す方が下手だと思っていましたが、どうやらそうではなかったようです。

研究者志望として絶望的だと思いますか? そうでもありませんよ。まず、話すことと書くことは何が違うのかを導くことで、そのギャップを埋められる可能性が出てきます。どうしようもないのか、それとも技術の問題なのかわかる、わけです。この記事書いてるのも話すように書いています。書くのは後から編集できるから、そのテーマに対して言いたいことをひたすら書いて、あとは論理を整えればいい。そしてもう一つ、録音するという対策も成り立つ。

 

つまり本当に私に対して必要だったのは、整理する方法と、書く教育だったわけです。対策を怠ったつもりはありませんが直りませんでしたね。

 

 

やらなきゃいけないこととやれること

義務

=やらなければいけないこと

研究を進める

説明不要。割愛。ちゃんとやってりゃ周囲に好印象を与えられるので困って声かけたときに助けてくれる確率が上がる(打算的)。恩は先に安売りしておけ。利子がつく。

研究を説明する

はい学際研究特有のアレ。そうここは学際。あなたしかその研究してないから自動的に第一人者だよ。やったね。そのため、言い換えればあなたの研究が面白く重要であること、平たく言えば意義というやつを、説明する義務があります。なぜその研究テーマが大事なのか、なぜあなたがそれを面白いと思っているのか、それをまず近い人(ここではさしあたり同じゼミの人とします)にわかってもらう必要があります。それがわからないと、まずアドバイスをもらうことに支障をきたす可能性があります。

 

もちろん研究やっている以上はその人がある程度第一人者ですし、みな説明責任を負っていますが、学際の場合にはわけが違います。なぜなら前提知識を全く共有していないからです。場合によっては先駆者もいないし託す相手もいない。かといって「先行研究ありません」とか言おうもんなら叩かれる(ゼミで)。直接の先行研究がなくても、似たものとか、より大きな文脈とか、そういうのは見つかるよね? という。むしろどこが違うのかを積極的に示しなされ。

 

まあ、院に受かってるなら最低限の説明能力に関して不安はないと考えていいです*5。それがないとそもそも受からないからね。

次は、分野外の人にそれを理解してもらうための練習と、知識の蓄えが必要です。

学際だと二つの分野を重ね合わせていることもよくあるしね。それは単純に考えて二倍の勉強量が必要だということを意味します。

 

 

何を勉強したらわからない? 先行研究がない? 誰に訊けばいいのかもわからない? そうですか。味方がいなけりゃ作りましょう。

 

 

権利

=あなたができること

指導教員(と先輩)の使い倒し

これは真っ先に擁護されるべき学生としての権利です。うちのDの人も「Mの相談に乗るのはDの仕事」って言ってた! Dにも金は払われるべきだ。あの人たちちゃんと食ってるの?

頼るのド下手な人は好感度保って近くにいて。ちょくちょく話をしていろいろわかってもらいましょう。よくしてもらったらお礼も忘れないこと。

ガンガン外部の人にメールをする

先生方は学生をむげにできないし、それにあなたの研究が面白いと思ってもらえるなら、メールも返事がかえってくる(はず。必ずではない)。研究紹介の書類は用意しようね! せめてテーマは書こう。

これは私見ですし軽率になってしまうパターンもあるかと思いますが、返事なくても催促していいと思います。忘れられるようだったらその人の記憶には残らないので迷惑とかも思われないし、返事くれるようならあなたに興味があるってことだから、あなたはどの道損しません。変な返事が来た? 忘れろそんな奴。事前にわかってよかったね。

足を使え 

学会に行って、テーマの近い発表を聞いて、(できれば印象的な)質問をする。うまくいけば向こうから話しかけてくれます。こなかったらこっちから行け。そうやって私もいくつか連絡先をゲットしていますし指導教官を紹介してもらった経験もありますし共同研究に発展したこともあります。出会い系みたいになってきた。

学内のサポート使え

具体的にはカウンセリング受けろ。これは正直人によりますが、自分はずいぶん助かりました。春学期公私ともにいろいろ重なって疲れ切ってしまいまして、以来カウンセリングにかかっていましたが、そのおかげで春学期最後の無茶振りと、秋学期の多忙な私生活+修士論文も乗り切れた(多分)。使えるものはなんでも使いましょう。院生活、ナメられることも多いけれど普通に多忙だしハードです。

なお利用のコツは定期的に入れることです。死にたくなってから予約取ってたら死にますよ。ドタキャンしてもいいから一週間に一回入れておけ。

 

むすび──枠を支える余白の重要性

どんな仕事も、メインだけで成り立ってるわけではありません。

 

飲食店の御手洗い、きれいであって欲しくないですか? あれは店員がやってる場合もあります。店員は「接客」業でありながら、接客でないところで客の印象を左右しうるわけです。売り上げに響くことだってあります。

いはんや研究をや。まして半ば自営業状態の研究する人にとって、売り込むのもメールするのも本読むのも資料まとめるのも自分。研究だけじゃないですよね? 自分を整えることと同様、味方を作ることも役に立ちます。

 

いろいろ書いてきたけど研究って楽しいことだよ。これは本心ですね。

 

 

最後にDの先輩の言葉を紹介して終わりにします。

 

「こんな職業でも見てくれは良い方がいい」

 

 

 

*1:「なぜAなのか」という質問に「Aだからです」という答えを返してはいけないので、よいこは真似しちゃいけない。悪い子は知らない。どこへなりと行くがよい。(cf.メイ・ウエスト

*2:「よい」にはいろんな定義があるが、ここでは「効率よく」くらいの意味にとどめておきます。

*3:なぜ私がこれを書くのかというと、自分が大学までずっと関西で初めて東京来て、友人もいなけりゃ研究してる身近な人もおらず専門も変わってしまい途方に暮れていたから。したがって言ってることはわりと初心者向け……だと思う。

*4:私の所属研究室の話。他は知らない。

*5:私ですか? よく通訳してもらってました。

中国語で「入店するときはマスクつけろ」と書くのは差別か?

面白いネタをもらいました。やってみます。

本来なら序論とか書くんだけど別にいいよね? この問に差別かどうか回答を与えてみよう。アブスト終了。

 

 

都内某所のコンビニで、中国語で「入店するときはマスクをつけてください」という貼り紙があった。これは差別なのか?

 

道具

えー、前提としてまず私が使用するのは差別の規範理論です。差別の規範理論とは、人々の差異づけおよび差異づけに基づいた差異処遇*1を前提として、その上で何が差別なのか、差別がなぜ道徳的に悪いのか、を探究する学問分野です。

わかりやすくいうと、女性が女子トイレに行き、男性が男子トイレに行くことは性別に基づく差異処遇ではありますが、道徳的に悪質な差別ではありません*2。なお、緊密に関連する分野として正義論があります。「正しい」取扱いと「正しくない」取扱いはコインの裏表として把握されるためです。

規範理論の中には、差別の悪質さを心的・経済的害に求める「害ベース説」と人間として尊重されていないことに求める「尊厳ベース説」があります。

 

ここまで前提ね。どっちでも説明できそうだね。

 

説明

害ベース説を使用する場合

これは直観的にはわかりやすい説です。つまり、被差別者(ここでは中国人)が不快に感じれば差別だというもの。

ただし害ベース説は帰結主義や、利益による埋め合わせといった考え方を採用するので、どこを帰結とするかによって回答が異なる可能性があります。

つまり、時系列的には

 

感染拡大(→貼り紙→中国人の不快感)→流行する/しない→収束

 

という状況になっているわけですが、現時点(下線部が該当)として見ると明らかにこれは差別です。

しかしながら、利益による埋め合わせを考慮する場合、日本人への利得が中国人の不快感を上回る可能性があり、その場合には差別でないことになります*3

まあ、これを欠点と呼ぶかどうかは立場の違いもあるかもしれません。一瞬でも害と認定できることはマイノリティにとって重要なのだという議論も十分成り立つでしょう。

 

尊厳ベース説を使用する場合

めんどくさいのはむしろこっち。

 

尊厳ベース説の代表格、Hellman(2008=2018)はこのような事態に対する基準として以下の3つを挙げています。

①当該の措置が平等な人格的価値の侵害を表現しているか(表現条件)

②当該措置はこれまでの平等な人格的価値の侵害を表現する行為とどれほど類似しているか(慣習条件)

③当該措置をおこなう人々や組織はその状況においてどれほどの権力を握っているか(ヒエラルキー条件)

 

①当該措置は平等な人格的価値の侵害を表現しているか?

尊厳ベース説は人格を尊重していないことに差別の根拠を求めますから、では「人格を尊重していない状態とはなんぞや」という問が出てきます。現在は題材が医療なので、生存権をベースにするのが妥当でしょうか。つまり、特定の国籍であることを理由に例えば、検査・治療を受けられないことは不当である、といった具合です。

さらに、こちらでは当該の属性にまつわる解釈的判断を使用します。ここでは「中国人」ですね。貼り紙が中国語で書かれていること+現在の感染状況を考えると、これは明白に中国籍の人々と、中国籍以外の人という差異付けをしている。

 

現在も中国籍の人々は日本で歴史的な重圧を負っていますから、この区分を採用することはちょっとリスキーです。差別にあたる可能性はでてきます。

 

問題は「マスク着用を勧告することは『人格を尊重していない』のか?」ということです。

 

 

②当該措置はこれまでの平等な人格的価値の侵害を表現する行為とどれほど類似しているか

入店の際にマスクの着用を勧告する場合、「マスクしてない中国人は入店するな」という意味であることは容易に理解できるでしょう。

当該の場から排除するということは、この場合には消費する権利を剥奪するということです。まあ、これは問題含みではあるでしょう。

 

③当該措置をおこなう人々や組織はその状況においてどれほどの権力を握っているか(ヒエラルキー条件)

しかし、この消費する権利の剥奪はそこまで絶対的なものかというと疑問が残ります。

第一に、このコンビニがコンビニグループ全体ではなく一店舗に過ぎないことがあります。コンビニならおおよそ品揃えは同じですし、少しいけば同じ店があります。コンビニの一店舗がやる分には、まだ中国人の選択肢が確保されている状態だからです。

第二に、入店したところで実際に排除に動くかどうかが不透明であることが挙げられます。そもそも中国人であることをいかに判断するのでしょうか? 話さなければわからないのでは? さらに、言語と国籍は必ずしもイコールではありません。また、確認されたら実際に退店を促すのでしょうか?

 

結論

以上の判断から、最終的には私は差別ではあるかもしれないが軽微であるという判断をしています。害ベース説を採用する場合にはより重度になるかもしれません(現時点では)。

本当は害ベース説をより詳細に検討して、「マスク着用」と「人格的価値」の関係性をよりはっきりさせるべきなのですが。後者に関しては「害を為さないこと」が人格の一部として(義務論的に)要請されると考えれば、彼らはむしろ人間扱いされている?

 

しかし、どうもこの議論は決まらないですね。はっきり答えが決まる類のものではないので、「はっきり決まらないこと」自体が課題であり、乗り越えるべき対象であるのかもしれない。

*1:英語ではdifferentationという。この語自体に日本語で言う「差別」のような道徳的に悪質であるという意味合いはなく中立的

*2:話をわかりやすくするため、トランスジェンダーの人々はここでは考慮しないものとする

*3:このあたりの一般的な害ベース説の欠点を克服するためにKasper Lippert-RasmussenがParfitの優先主義を元にした害ベース説を提唱しています

東大准教授、差別発言で炎上

(英語版書くために日本語で書いたものをはります)

 

東京大学のプロジェクト付きの准教授であり、Daisy社の社長である大澤昇平は、「パフォーマンスが低い」ため「中国人は雇わない」とツイートした。さらに、「もし志願者が中国人ならば、面接に呼ばない。履歴書の時点で落とす」ともツイートしている。

 

このツイートは今年の11月20日のものだ。このツイートは急速に炎上し、大澤氏が所属している東京大学情報学環の学環長は、11月28日に最初の声明を発表した。

 

しかしこの声明は不十分であると批判された。理由は次の通り。

この声明は、このコメントは個人や組織の思想であり、学環とは関係がないとするものだった。この文章は非常に奇妙に思える。一つには、そのような思想を表明したツイートのアカウントのプロフィール欄には、「准教授」と書かれていた。また、彼が企業から資金提供を受けて講座を運営していること、そして最年少准教授であることを売りにしていることを考えても、無関係であるとは考えにくい。なので、この声明は表面的な印象を与えた。

 

11月28日、学環長は次の声明を発表した。より反差別に対する姿勢を明確にするとともに、彼らが取った対応について説明した。対応については、この一文から読み取れる。「これらのツイートが発見されてから、繰り返し不適切な発言について警告するとともに、コメントを削除するよう求めたが、彼は何もしていない」(※英文を和訳しているのでそのままの文ではないです)。

 

大澤氏は謝罪したが、当該の謝罪が心からの謝罪でないことは明らかである。第一に、彼は差別行為に対する彼自身の責任をAIに押し付けて(AIは彼の専門)、差別を正当化している。差別の理由は「AIの過学習」のせいだと述べているのだ。第二に、彼は「中国人のパフォーマンスの低さは事実である」という態度を崩していない。第三に、彼は中国政府への義憤から行動を起こしたと述べている。確かに中国政府がやっている行いの中には不当なものもある。たしかに、中国政府はウイグル人を弾圧している。しかしそれがなんだというのか? もちろん彼が中国人を差別する十分な理由にはならない。差別をするのに十分な理由など存在しない。それは中国政府もそうだが、大澤氏も同様である。

 

これはまだ続いている問題である。大澤氏は有害なツイートを続けている。

彼はITASIAコースの生徒がスパイだという含みを彼のツイートに持たせた。ITASIAとは、教授が所属するIIIと対になっている、生徒が所属するGSII(学際情報学府)組織にあるコースの一つである。全ての授業が英語で行われるために多くの中国人生徒が在籍している。

また、彼はこうもツイートしている。「覚醒せよ、日本人! 天皇靖国のために!」(※大意です)靖国とは靖国神社を指しているのだが、この文脈における靖国を理解するためには、靖国がどのような場所かに目を向ける必要がある。靖国神社は、第二次世界大戦後における戦死者を英霊として祀る場所である。よって、彼のツイートはナショナリズムと結びついている。

さらに、彼は女性の、若い准教授(彼を「弾圧」する男性の学環長ではなく)を中傷し続けている。彼女はアジア地域の研究者だ。彼の姿勢は女性蔑視的でもある。

 

これだけでも悪夢のようだが、この事態を深刻にしているのはこれが彼だけの問題ではないということだ。日本では中国人に対する蔑視が根強く残っていて、彼を賛美する人たちもいる。「誰かが救国活動の邪魔するために意図的にあなたを陥れているのだ」といって、彼を支持する人がいる。彼のように、「中国人はスパイだ」という人もいる。

 

加えて、東京大学本部は何もしていない。現状、学環と学際情報学府の問題だと考えられているようだ。私にできることは書いて、英語で伝えることだけだ。この声が良識ある人々に届くことを望んでいる。

 

 

 

 

というような文があったら私だと思ってください。

「あなた」と「わたし」の混合ーープライバシー概念の限界

 

 

さて、これまで(飛んで)2回ほど、あなたはあなただけのものではない、あなたが選ぶものは他の人と混ざり、あなたが見るものも他の人と混ざる、という話をしました。

 

データ化されて行動履歴が使用される以上、そのデータはあなたになったり、「他の人」になったりするわけで、

あなたがネットに足跡をつける以上は、そうして現れる思考を、もはやあなただけの内に留めておくことはできないのです。

 

 

プライバシー概念とは、かつて「放っておかれる権利」と言われたことがあります。

しかし、この現状からすれば、あなたは決して「放っておかれる」ことはありません。

 

むしろ、データを集める企業に、進んで声をかけられ、振り向かされ、形式ばかりの同意と提供を求められるでしょう。

 

 

 

ところで、「放っておかれる」ことがなぜ大事なのでしょうか?

 

 

それは、「放っておかれること」「自分で放っておかれるときと、放っておかれないときを選択できること」

 

──つまり、情報提供の文脈で言えば「秘密を保つこと」、

ひいては「情報開示を選べること」が、自分の人格を大事にするにも等しいことだからです。

 

 

プライバシーは、不可侵の人格権として広範な範囲を指し示します。

 

したがって、「これがそうです」と具体的に言えるものではありません。

 

しかしながら近年では、

自己情報のコントロール権として具体化された形で言及されることが多いです。

 

「自分で自分の情報を開示するか選べる」権利ということですね。

 

 

でも、あなたのデータは、他の人を「見る」ためにも使われているわけで、

 

そういう時代に、「自分の情報をコントロール」するだけで充分と言えるんでしょうか?

 

 

なので、権利概念としてのプライバシー今や不十分です。

 

「あなた」のデータは他の人を「見る」ためにも使われるので、

もはやあなただけのものではないのです。

 

 

もう一つ付け加えるなら、

権利概念としてのプライバシーはそれはそれとして、

仕組みとしていかにそれを実装するかという問題があります。

 

 

さっき「形式ばかりの同意」と述べたのはその一つです。

 

みなさんはプライバシーポリシーや利用規約を読んだことがありますか?

「読んだ」とチェックをつけるとき、

本当に読んでいますか?

 

ですよね。

私も読んでないです。

 

 

というわけで、プライバシーは概念だけじゃなく、

その実装に関しても難問を抱えているといえます。

ゲーム作品に見る中国人表象──「新・サクラ大戦」の事例

 

友人がサクラ大戦のファンなので、喜んで限定版を買い、プレイを始めて一時間後には大変落ち込んでいました。

 

問題はこう。

 

 

1.上海華撃団の中国出身のキャラクター(以下A、B)がライバルとして登場した。

2.帝国華撃団のキャラクター(以下C)がピンチに陥り、AとBに助けられた。

3.AがCをスカウトする。

4.Cがスカウトを断る。

5.A、BがCに暴力を振るう。

 

 

いやおかしいよね?

 

 

最も直接的に問題だと考えているのはこのシーンですが、

もう少し背景を説明しましょう。

 

 

これらのキャラクターは、オリンピックのような世界平和の祭典のために集まっています。

AとBは、ストーリーの最初から百戦錬磨のライバルとして登場していました。

最初の登場(とデザイン)は、まあステレオタイプ的ではありますが、

その事自体に問題はありません。とりあえずは。

 

 

むしろここで問題になるのは、①なぜそのような(殴る、という行為に出るような)シナリオになったのか、

 

そして②その役回りをなぜ中国出身のキャラクターが演じなければいけなかったのか、です。

 

まず文脈を確認しましょう(①)。

 

暴力行為におよぶ前のシーンでは、Cががんばり屋で健気であるということにスポットが当てられていました。

彼女は夢のためにずっとがんばってきたのだと。

そして彼女と司令室の面々は無線で接続されており、そのことはAとBも知っています。

なおかつ、Cに緊急脱出を促す声も聞こえているはずですし、

「百戦錬磨」なのですから、光武がどれほど損害を被っているかもわかっているはずです。

 

そのような状況下さらに攻撃を加えるならば、

それは殺意があると思われてもおかしくはない。

 

シナリオを見る限り、この暴力行為は正当なものではありません。

 

 

 

そして、この表現をより悪質にしているのは、当該のキャラクターの国籍です(②)。

 

このような行為に及ぶ役回りのキャラクターは、なぜ中国出身でなければならなかったのでしょうか?

 

中国出身でなければ、もしくはただ個人のずるさとして片付けられるならば、

この表現には問題がなかったでしょう。

 

しかし、日中の歴史的な背景および、現在の日中関係を踏まえて、

これを「上海華撃団」がチームぐるみでやっている、という表現には問題があります。

 

(制作陣に実際に偏見があるかどうかではなく)

これでは偏見があると思われても仕方ありませんし、

偏見を助長しうる表現でもあります。

 

「彼らがスパイだ」と平気で言うような人がいるような状況下で、

世界展開をしている企業であるSEGAが、

このように表現をすることはまあ、はっきり言って、無神経です。

 

 

またこんなこと言うとポリコレ棒とか言われるんですかね。

AI利用者の技術倫理──大澤氏の発言から考える

 

最近よく燃えていますね。

 

 

謝罪したかと思えば、あれは謝罪ともいえないお粗末なものでした。

自分は悪くないと思っているのがバレバレです。AIのせい。誤解を招くようだから消去する。共産党の批判のため。しかも信者が沸いてますね(でしょうね)。

 

炎上商法は成功してしまったわけです。

 

 

公開講座に資金を出していた3社は、騒ぎが起こってすぐに資金を切りましたが、その後も謝罪はありませんでしたね。

「謝罪」はスイスの会社、streamrから事業用資金を切られた後です。

皮肉にも大学側が一番動きが遅い…。

 

 

ここで着目すべきなのは、彼がどの立場に立っているかということです。

「炎上商法」というからには、注目を集めることが目的だったはず。そのために人種差別の話題を持ち出すのは、道徳的には非常に悪質ですが理にかなってはいます。

 

彼は資本主義ではパフォーマンスの低い労働者は差別されて当然だとして、パフォーマンスの低い中国人労働者(正確には、志願者)を排斥すると述べています。

そうです、彼が立っているのは、あくまで経営者としての立場なのです。選ぶ側、選抜する側。

 

確かに、パフォーマンスが低いということは当該志願者を選ばない理由になるでしょう。それは採用方針として妥当です。

それは利益追求を目的とする私的企業だからです。

 

しかし、みなさん述べているように、それを国籍と結びつけることは極めて悪質です。さらに彼は言い訳として、「AIの過学習」を理由にしています。

まあ過学習についてはいろいろツイートがあるので省略します。

 

 

問題は、ですね、この差別的発言を信じちゃう人がいるんじゃないか、という点です。

 

今の段階では中国人憎しの人が寄ってきて彼を擁護しているだけですが(だけというのもなんですが)、

これが本当に関連性出しちゃったAIを元に言われてたらどうでしょうか?大体の人は信じてしまうんじゃないでしょうか。

 

大澤氏の場合は言い訳が下手なだけなのですが、これはもっと、信憑性が高そうに見せることができるはずです。

関連性はこれくらい、有意確率はこれくらい、といって。

 

その場合、AIも差別をする「主体」になることができますし、さらに私たちもその影響を受けます。

今回のケースのように、炎上すればするほど遠くまで届き、それだけ多くの人の目に触れることになります。

極めて単純に考えれば、それだけ差別的なAIの判断結果が信じられやすくなる、ということです。

 

 

ということは、私たち利用者側も、AIについて知っていなければならない。

技術倫理というとエンジニアや企業だけのものといったイメージですが、実は違うようです。少なくともGoogle検索エンジンに関してはそれなりに研究の蓄積があり、いろいろ歪められている可能性が明らかになっています(なんというか…有名税ですね)。

 

データはいつもいつも「正しく」ないですよ。

 

そもそものデータが偏ってたりノイズ入ってたり実際にはいろいろあって、それそのまんま使える方が稀だし、基本的に人種と貧困層が結びついてたりすると、貧困層を特定しようとしたとき一緒に人種が引き摺り出されてバレて爆発引火炎上してまあ大変、ってなったりします。

 

 

まあでも、彼によればデータは正しいんですよね?

それなら差別的発言して1年で会社の提携切られて損失出して、彼の方が売り上げ的にも人格的にもマイナスじゃないですか? 雇ってない人はそもそも損失、出してないですよね?